令和に続く 中村春二の教育観

 本学には2体の中村春二胸像がある。1体は情報図書館の入口付近に、中村の13回忌と学園創立25周年を機に建てられた。もう1体はそのレプリカで本館1階に位置する。これらの胸像を見て、本学園の創立者である中村の存在を知った人もいるだろう。とはいえ、彼の人物像や功績について理解している人は少ない。成蹊学園史料館の近藤茂グループ長に話を伺い、中村の一生に迫る。

 1877年3月31日に東京・神田猿楽町で生まれた中村。幼少期から英才教育を受け、尋常中学時代には友人に「聖人」と呼ばれるほどの模範生だった。この頃、生涯にわたる友となる今村繁三と岩崎小弥太に出会う。後に本学園の理事を務める彼らは、教育に人生をささげた中村を経済面でも支え続けた。

 中村が教育者を志したのは、東京帝国大学(現在の東京大学)在学時だ。在学中、曹洞宗第一中学林(現在の世田谷学園)の講師となった彼は、貧困によって進学できない生徒がいることや、画一的な教育に憤りを感じていた。大学卒業後の1906年に学生塾を開き、翌年「成蹊園」と命名。1912年から1917年にかけては、個性の尊重や少人数教育などを理念とした成蹊実務学校をはじめ、5つの学校を池袋に開校した。中村の教育活動は全国へと拡大し、大正自由教育運動の中核を担ったという。しかし、これらの活動で多忙を極めた彼は体調を崩しがちになる。成蹊学園の吉祥寺移転が目前に迫った1924年2月21日、46歳という若さで亡くなった。

 成蹊大学の開学は、中村の没後25年のこと。背景には6・3・3・4制への学制改革があった。少人数教育は大学にも踏襲され、1950年には1科目15人のゼミナール制を採用。現在でも全学部でゼミ演習が行われている。彼の教育方針は、令和になった今でも脈々と受 け継がれているのだ。(高梨翼)

3月4日、アドミッションセンターが2022 年度本学一般入試の志願者数を公開した。新型コロナウイルス感染症流行下における入試は、本年度で2年目を迎える。本年度の志願者数は1万9475 人。1万8641 人だった昨年度と比べて800 人以上増加した。学部別に見ると、経済学部は542 人減の2948 人、経営学部は214 人減の3425 人、法学部は641 人増の4382人、文学部は8人減の3706

北京冬季五輪が閉幕して1ヶ月半が経とうとしている。日本人選手の活躍が連日伝えられ、日本は冬季五輪史上最多のメダルを獲得した。今回の大会で私が最も印象に残ったのは、フィギュアスケート男子シングルに出場した羽生結弦選手だ。 羽生選手は4位に終わり、惜しくもメダル獲得には至らなかった。しかし、体が万全でない状態でありながら、前人未到の大技に挑戦する姿は、世界中の人々に勇気と感動を与えた。試合後に彼は「報